夢中文庫

禁断の試着室

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  • 作家鈴月奏
  • イラスト九重千花
  • 販売日2015/5/26
  • 販売価格300円

「僕は自分の直感に従って君を指名した。他に理由が必要か?」 大手下着メーカーに事務員として務めるごく普通のOL綾瀬文は、デザイナーの桐嶋悟に助手として指名を受け、《試着室》と呼ばれる彼の個室へと向かった。重要な展示会を控え、パリにある海外支部から帰国したばかりの桐嶋は、眉目秀麗さと洗練された佇まいから社内では何かと話題となっていた人物ではあったが、その寡黙さ故に女子社員からの話題も下火になりつつあった。何故自分が助手として指名されたかわからないまま、文は桐嶋との二人きりの時間を過ごしていく。だが、助手として指名したにも拘わらず、桐嶋は資料に目を通すことしか指示しない。疑問を抱きつつ、言われたままランジェリーの資料を捲ることしか出来ない文。だが、着用モデルが身に着ける一枚の写真が目に留まった文に、桐嶋が唐突に話し掛けた。漸く訪れた会話の機会に、文は自分を指名した理由を問うが、桐嶋は「君が欲しいと思った、ただそれだけだ」としか答えてはくれない。寡黙でミステリアスだが、どこか自分を魅了してやまない彼に、文は段々と惹かれていき、歓迎会の後、記憶もないままに彼と身体を重ねてしまう。自分の身体を探り、測るような彼の愛撫に文は次第に溺れていき――《試着室》と呼ばれる二人きりの密室で過ごす、甘く切ない秘蜜の時間の行方とは……?

表情を隠すように俯いた顔に横髪が零れる。
「もっと良く見せて」
「……っ」
喉の奥から迫り上がってくるものを抑えようと唇を引き結んだが、遅かった。
「ほら、ちゃんと立って」
耳元で囁かれる声は熱く、肌の表面をぞくぞくと粟立たせ始める。ちゃんと立たなければと思っているのに、足元がぐらぐらと揺れて今にもその場にへたり込んでしまいそうだった。
「桐嶋(きりしま)さ……ん、ぅっ」
背後に立つ彼の名を呼ぶ音は、しっとりと濡れてしまっている。
「これ以上は、サンプルが汚れて――」
ささやかな抵抗は、彼の熱い唇によって塞がれ、私はそれを受け入れる。
「構わないよ。それともここでは嫌?」
目を閉じたまま首を横に振った私は、彼の腕に手を回し、シャツの袖を掌の中に握り込めた。
――溺れる。
そうわかっているのに、自分でも止められない。この感情を、何と呼ぶのか私は多分気づいている。
彼と出逢ってからの時間は、こうなってからはもう関係がないのかもしれない。
「挿入(いれ)るよ」
甘く誘う声に私は頷き、彼の熱を受け止め悦ぶ声を上げた。

* * *

「人事異動……ですか?」
「ああ、そうだ。桐嶋君からの指名でね。君を助手に欲しいと」
金曜日の午後、別室に私を呼び出した部長は、渋い顔をしてそう告げた。急な人事異動にも驚いたが、私は部長の発した固有名詞に驚きの声を隠せなかった。
「桐嶋悟(さとる)さんのですか?」
社内には他に桐嶋の姓を持つ人はいない。念のためフルネームで確かめるように問い掛けると、部長は大きな溜息を吐いて煙草に火を点けようとして止め、睨むように私の顔を見上げた。
「彼の下では不満かね?」
「いえ、不満はありませんが……ちょっと唐突で」
五月に入り、新年度の業務も軌道に乗っていたところだ。部長の視線に頭を振って答え、私は慌てて自分の意思を伝えた。
「まあ、確かに……唐突ではあるな」
部長は私の言葉にやや表情を緩め、火の点いていない煙草を手に立ち上がると、窓辺へと寄った。煙草を吸うために窓を開けるだろうと推測したが、本当にその通りで、私はここが禁煙であるということを言い掛けて止め、恐らく機嫌の悪い部長との会話をなるべく円滑に終わらせようと心に決めた。
「……私としても、この時期に君を手放すのは困るのだよ。課長も君が必要だと言ってきかなくてね」
課長が私を必要としているのは、部長とはまた別の理由だ。この機会に課長からのセクハラを訴えてしまおうかと思ったが、口を挟まずに次の言葉を待った。部長は火を点けた煙草を深く吸って、紫煙をくゆらせながら、今度は憂鬱そうに溜息を吐いた。
「だが、今度の展示会にどうしても君が必要だとの事でね」
展示会というのは、来月に行われる新作発表の場でもある。デザイナーとして、パリにある海外支部で活躍していた桐嶋さんが本社に戻ってきたのは、この展示会で彼のデザインしたランジェリーを前面に押し出す企画が持ち上がっているからだという話は社内では知らない人はいないほど有名だ。エリートで物静かな青年との触れ込みだった彼は、実際には寡黙で一人を好み、社内の誰とも積極的な接触を好まず、試着室と呼ばれる個室に篭もりきりだ。帰国当初こそ女子社員の間では騒がれていたが、今ではそれも下火になりつつある。
「でも、私は単なる事務員ですし、仕事も特別出来るという訳ではありません。まして、デザインのことは……」
「下着メーカーの営業事務を三年もやって、下着のデザインのこともわからないと言うのかね?」
窓の桟で煙草を揉み消しながら、部長が不機嫌そうに問う。萎縮した私は慌てて首を振って否定し、済みません、と小声で呟いた。
「詳しい事は桐嶋君から聞きたまえ」
充分な説明は与えられなかったが、決定されたことに従う他に術はないのだろう。
「……わかりました」
私は諦めて部長の言葉に頷くと、私物とごく簡単にデスクの上にある荷物をまとめて、試着室へと急いだ。

「失礼致します」
試着室と呼ばれているその部屋は、天井までの半透明のハイ・パーティションで区切られた小さな部屋だった。
「待っていたよ、綾瀬(あやせ)文(ふみ)さん。入って」
パーティションと同じ素材のドアを開いた桐嶋さんは、当然のことのように私を招き入れ、私はそれに従って部屋へと入った。窓際にデスクが一つと、応接用のものと同種のソファとテーブルがあるだけの質素な部屋だったが、デスクからやや離れた奥の壁際に、試着室とおぼしきチョコレート色のカーテンが敷かれた空間があった。奥に見えるのは鏡だろうか、そう考えていると、桐嶋さんに肩を叩かれた。
「そこ、座って」
示されたのは応接用のソファだ。
「……あの……」
デスクは一つしかないので、ここが私のデスク代わりということになるのだろうか。
「そこしかないんだ」
どうすれば良いか迷っていると、桐嶋さんは私の手から荷物を取り上げてテーブルの端に置き、もう一度私に座るようにと促した。
「……はい」
私は言われるがままソファに座り、手にしていた春物のコートと私物のバッグをソファの角に置いて腰掛けた。
「部長からの話は聞いているね?」
「はい。桐嶋さんの下につくようにと」
桐嶋さんはデスクに寄り、何冊かある分厚い資料を手に取ると、それを抱えて私の元へと戻って来た。
「その通りだ。では、その資料に目を通して」
分厚いバインダーに几帳面に綴じられた膨大な量の資料が目の前に置かれる。それが三冊。生地のサンプルが混じっているのか、それとも栞代わりに使われたのか、装飾の美しい濃紺のレースがそのうちの一冊からはみ出していた。
「目を通して、何をすれば……」
レースの入っている頁を指で探り、そっと押し戻しながら問い掛ける。
「目を通せばいい。後で指示する」
「……わかりました」
私の答えを聞く前に、彼はもう険しい顔で鉛筆を手に取って何かを描き始めていた。下手に質問するよりも先に、資料に目を通すべきだろうと判断した私は、分厚いバインダーを手元に引き寄せて捲り始めた。
バインダーには、ランジェリーの写真、着用したモデルの写真、サンプルの生地が几帳面に綴じられている。これだけでも営業用のカタログとして成立するほど、クオリティは高く、単に目を通せと言われても、どれも美しく、あるいは前衛的で何をどう見て良いのかわからないくらいだ。
「…………」
狭い室内には、私が資料を捲る音と桐嶋さんが鉛筆を走らせる音だけが響いている。全ての資料に目を通した後、彼からは何の指示が来るのだろうか。そもそもデザイナーの助手の仕事は何なのだろうか。そんなことを考えながら半分ほど資料に目を通したところで、一枚のスリップに目を奪われた。
線の細いレースを細やかな刺繍で胸元に縫い付けた黒のスリップは、黒という色にも拘わらず華やかな印象でそれでいて非常に上品で、揃いのブラジャーとショーツとの組み合わせも計算され尽くしたような美しさがあった。胸騒ぎのようなものを感じながら次の頁を捲ると、ランジェリーの上にジャケットだけを羽織ったモデルの写真が現れた。モデルは床の上に膝立ちになって、斜め上を見上げている。ジャケットの胸元ではスリップのレースが緩やかなカーブを描いており、ジャケットの裾からは、スリップの裾がほんの僅かに可愛らしく覗いていた。

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