夢中文庫

オトナの恋愛事情 ~今夜奪って~

mizukinoa01s
  • 作家水城のあ
  • イラストnira.
  • 販売日2012/11/23
  • 販売価格300円

真央は会社帰りに偶然足を踏み入れた画廊で、十八歳年上の男性、内藤と出会う。画家だという内藤の独特の雰囲気に興味を持ち、頻繁に画廊を訪ねるようになった。最初は親子ほどの年の差があると感じていたけれど、彼の男性としての余裕や包容力に次第に好意を感じるようになっていた。でも、真央の気持ちとは裏腹に、内藤は女性とはあまり親しくならないように気をつけているように見える。ある日、人物画を描くことをやめてしまったという内藤が、自ら真央にモデルになって欲しいと言い出した。どうやら彼の少し寂しげな表情にはその過去が絡んでいるよう。デッサンをしながら過去を語る彼の姿に、押さえきれなくなった彼への愛情があふれ出して……

どうしてその画廊に足を踏み入れてしまったのか、いまだによくわからない。
オフィスの近くにあって、その控えめに掲げられた看板を毎日のように目にしていたけれど、覗いてみようなんて思ったこともなかったのに。
でもその日はふらりと立ち寄りたい、そんな気分だったのだと思う。
その画廊は銀座のメイン通りから、一本路地を入ったところにあった。
並びは古い時計屋さんで反対側は雑居ビルの入口。どちらかというと銀座でも、あまり新しい店の出入りがないあたりだった。
私、古瀬真央は地下鉄の出口を出て、その裏道を通り抜けた先にある住宅リフォーム会社に勤務している。
いつも早足で駆け抜けてしまうことが多いから「ああ、そこに画廊があるんだな」と、目印程度に考えていた。
でもその日は朝からショックなことがあり、そんな日は当然仕事もうまく行かなくて、仕事でのミスを叱責され暗い気分で会社を出た。
部屋に戻って一人になることが耐えられなくて、薄暗くなった通りにぽっと灯った明かりに手招きをされるように、その店のドアを押した。
受付と思われる長テーブルと椅子には中年の男性が腰掛けて、文庫本を読んでいる。
彼は視線をあげてこちらを見たけれど、少し口元を緩めただけでなにも言わない。私は軽く目礼をしてからゆっくりと中を見回した。
店内は思っていたより奥行きがあって、様々なサイズの絵画が展示されている。
最初はこんな裏道にある画廊だし、目を引くものなんてないだろうと思っていた。だから何気なく体の向きを変えたとき、目の前に広がった世界に一瞬息を詰めた。
「……っ」
それが絵画であるとすぐに気づいたけれど、目の前に広がった茜色の空と広がる海がリアルで、その瞬間だけ自分がタイムスリップでもした気分になる。
似たような場所なんて世界中のどこにでもある。そんなこと十分わかっているはずなのに、水面に光が踊っている様子を見たら胸が苦しくなった。
どれぐらいその場所に立っていたんだろう。ふと、目の前に白いものが差し出された。
「……どうぞ」
それは眩しいぐらいに白いハンカチ。
いつの間にかそばに人が立っていたことに驚いて、その手の主を見る。それは先ほど受付に座っていた中年の男性で、少し戸惑ったような笑みを浮かべて私を見つめていた。
「大丈夫ですか?」
「あ……」
返事をしようとして初めて、自分の頬が涙で濡れていたことに気づく。
朝から胸の中に溜まっていたモヤモヤとした黒いものが、冷たい滴となって頬を滑り落ちていく感触に恥ずかしくなって、慌てて顔を背けた。
「す、すみませ……っ」
止めなければいけないのに、涙が勢いを増して溢れ出す。
彼は私の手にソッとハンカチを押しつけると、
「どうぞ。ゆっくりしていってください」
そう言い残して背を向けた。

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