夢中文庫

たくさん零して掴まえて

  • 作家水守真子
  • イラストまるこ
  • 販売日2018/12/14
  • 販売価格400円

彼氏に他の女の名前で呼ばれた──この事が頭から離れないひとみは、あろうことか取引先の男性の股間にコーヒーを零してしまい、さらには一心不乱にそこを拭うという失態をおかす。直後、彼氏からはお手軽に電話で別れを告げられ、失意のどん底。気分を変えようと入った店ではコーヒーをかけてしまった被害者・篠田がいた。逃げるように店を出るひとみ。しかし呼び止めた篠田と言葉を交わし距離を縮め送ってもらうのだが、別れた彼氏に無断で家に入られていた。怖いだろうという篠田の気遣いに甘え泊まった夜、ふたりは肌を重ねる。連絡先は交換せずに毎週会いに行くだけの関係が続くが、ひとみは篠田に惹かれる気持ちを徐々に自覚し始め──。

Side.江藤
 私は彼に話し掛けられた。
「美羽(みう)ちゃん」
「……みう」
 驚きすぎて普通に復唱してしまったのは、私の名前は江藤(えとう)ひとみだから。
 今日は朝から雨がパラパラと降っていて、昼には晴天になった。夕方から夜にかけては大雨で、この落ち着きのない天気が、私を不安定させていたのかもしれない。
 人生二度目の最低最悪な状況にうまく対応できなかった。
 シャワーを浴び戻ってきたばかりの彼は、髪を拭くタオルで顔を隠していて、どんな表情をしているかは見えない。
「ん?」
 聞き返されて私はますます混乱した。肌にはまだ情事の体温が色濃く残って、私の動悸は激しくなっていく。
「俺、なんか言った?」
 私の聞き間違いということになろうとしている。『今、みうって言ったよね。何を誤魔化してるの』と、頭の中では彼に聞いていたけれど、想像と現実は違う。
 私は自分が傷つかないように、彼に逃げ道を作る問いかけをした。
「何か、言った気がして」
「何も言ってない。それよりシャワーを浴びてこいよ」
 初めての彼に情事の最中、違う女の名で呼ばれたのが一回目。
 二番目の彼に情事の後、違う女の名を出されたのが今回で、二回目。
(何の業を背負っているのだろうか)
 そう思いながらも、作り笑いでこの場を終わらせようとしている私は弱い。
「そうする」
 我が物顔で彼は煙草に火をつけた。私の家ではベランダでお願い、という言葉はもう何十回も無視されていて、すでに注意する気力は奪われている。
 私は服で胸を隠しながら立ち上がり、ちらりと彼の顔を窺った。何か罪悪感のようなものが浮かんでいないかと期待したのだ。
「あ、サッカーの時間だ」
 彼はリモコンを手にした。
「お前の家、ケーブルテレビ見れてまじ助かる」
 セックスの後に煙草を吸いながら好きなスポーツを見る彼を、私は本当に好きなのだろうか。
 モヤモヤを握りつぶそうとしても、指の間から漏れだしてしまう。
 私は溜息をぐっと飲みこんで、美羽という名前を心に刻み続けていた。
 私の感傷など関係なく、月曜日は普通に始まる。
 白シャツの袖をロールアップして、好みの太いベルトの腕時計をつけた。ゆるいパーマをかけた髪は無造作にひとつにまとめ、耳には小さなダイヤが入ったピアスを付ける。くるぶしが見えるベージュのパンツに三センチのオープントゥの白パンプス。
 質の悪い睡眠をカバーできるくらいの化粧ならマスターしている。
 格好に気持ちの揺れを出すのは嫌で、私はいつもよりしっかりと洋服を選んで出社した。
「おはようございます」
 プライベートをパブリックに持ち込むなんて社会人のする事じゃない。私はいつも通りの笑顔で挨拶をしながらオフィスに入った。
 出社すれば治まるかと思った片頭痛はひどくなっていて、私はデスクに着くなり口の中に頭痛薬を放り込んだ。ペットボトルの水で錠剤を流し込み、唇の端についた水を指で拭う。
「……みう」
 頭の中で何千回と繰り返した名前が口から出た。昨夜は聞き違いだと信じたくて、水回りを無心で掃除した。
 ピカピカに磨き上げた風呂場とトイレは、彼がいたという痕跡を消しただけで、私の気持ちは軽くならないままだ。
 就業のベルが鳴ったことで現実に引き戻されて、私は立替金精算の申請書をチェックし始める。月末が近づいてきてレシートを貼り付けた申請書が書類棚の中に増えてきていた。
 事務職の身には気持ちが引き締まっていく時期なのだが、昨日の今日では集中力が続かない。
 昨日、彼は何事もなかったかのように帰っていった。堂々とした態度に流された私は完全に弱っている。
 元彼と彼、二人に同じことをされれば、自分自身が根本的に間違っていると思わずにはいられない。
「江藤さんはいる?」

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