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氷の公爵は黒百合の毒婦を愛して離さない

  • 作家逢矢沙希
  • イラスト森原八鹿
  • 販売日2020/09/15
  • 販売価格900円

黒百合の毒婦──手段を選ばず、瞬く間に公爵夫人にまでのぼりつめたリネットを貴族たちはそう呼んだ。とある事情から、爵位と後見人を次々と乗り換えて成り上がったリネットは、ついに若き公爵・ギゼイルの妻となる。その婚姻は彼を罠に嵌めた結果のものだったが、リネットの思惑を知ってもなお誠実に、優しく接してくれるギゼイルにリネットは惹かれていく。しかし一方で彼を利用している罪悪感も膨れ上がっていった。そして、目的を果たしたのちギゼイルのもとを離れようと決意した夜。「悪いが、逃がすつもりはない」ギゼイルはリネットを熱く求め、二人はようやく結ばれた──かのように思えたのだが、未だ互いに秘密を抱えていて……?

序章
 ギゼイル・ラグノア・バルツァード様。
 まずはじめに、あなたにとって、私は決して良い妻ではなかったことを深くお詫び申し上げます。
 それにもかかわらず、あなたには多くの配慮をいただき、心から感謝しております。
 この恩をお返しできずに去る私を、どうぞお許しください……
 そこまで書いてリネットはペンを持つ手を止めると、便せんを取り上げて細かく千切り捨てた。
 今更、何を書き残すつもりだったのか、自分の都合のために彼の人生に土足で踏み込み利用したくせに、最後に未練がましい謝辞を述べて許されようとするなんて、あまりにも虫が良すぎる。
 こんな手紙を残せば、夫、ギゼイルは少なからず気に病むだろう。
 間違いなく彼は夫として誠実な男性だった。
 たとえ出来の悪い妻だったとしても、その身を案じるくらいのことはきっとしてくれる。
 一見冷徹に見えながら、実は優しい男性であることを今のリネットは知っている。
 だからこそ、そんな彼にはなんて酷い女だと、勝手にしろと思わせるくらいでちょうど良いのだ。
 静かに目を閉じた。
 細く息を吐き出して、改めてたった一行の言葉を書き残す。
 後のことはあなたの良いようになさってください。全てをお任せいたします。
 便せんの一番下に自分の名を書き記し、手早く封筒に収めた。
 伝えたいこと、言いたいことはたくさんあるような気がするけれど、多分それらは彼に告げてはならないことでもある。
 封筒を机の中央に置くと、リネットは自分の中の未練を振り切るように視線を手紙から引きはがして背を向け、足元の旅行鞄を持ち上げた。
 鞄はさほど重くない。入っている物は少しの着替えと、日用品、そして少しのお金……それだけだ。
 部屋の壁際に置かれている姿見にふと視線を向けると、地味な金髪の女が一人映り込んでいた。
 身に纏うドレスも、その上に羽織っているコートもなんの特徴もない、丈夫なだけが取り柄の平凡な品。
 今は、キツい厚化粧も、その身を飾る宝石も何もない。
 でも、それが本来のリネットの姿だ。
 きっと今のこの姿を見て、社交界で『黒百合の毒婦』とその名を知らしめたバルツァード公爵夫人その人だと気付く者は殆どいないだろう。
「……さようなら、ギゼイル様」
 小さく呟いて、部屋を出た。
 夫は今夜も屋敷へは戻れないという報せを受けたばかりだ。
 使用人達には、早めに休むように命じ、あらかじめ夕食時に、日頃の労をねぎらうという名目で上等な酒を振る舞っておいた。
 口当たりは良いが強い酒のおかげで、きっと今頃はもう多くの使用人達が眠りについているか、起きていたとしてもごく一部だろう。
 その証拠に、耳を澄ませても廊下は静まり返り、誰の気配も感じられない。
 けれどいつ人が来るかは判らない。急いでここから離れてしまおう。そう思うのに、なかなか足が思うように動かず、頭の中に今朝出かけていく姿を見送った時の夫の姿がちらついて消えてくれない。

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