夢中文庫

淡雪のごとく恋は降る

  • 作家西條六花
  • イラスト駒城ミチヲ
  • 販売日2020/07/03
  • 販売価格900円

昭和九年、上海。繁栄を極める租界において、裕福な美術商という姿を隠れ蓑に諜報活動を行っている帝国陸軍の情報将校・板倉は、何かに追われている様子の中国人の美少女・瑞華とぶつかる。届け物に行った先で客に襲われそうになり、逃げてきたという彼女を放っておけずに助けた板倉だったが、瑞華は幼少時に蔡家に金で買われ、成人後に息子の妻となることが決まっている〝新婦仔(シンプア)〟だった。二人の間に交流が生まれ、上海語のレッスンを重ねるうち、瑞華は板倉の優しさに慕わしさをおぼえていく。一方の板倉も純粋で可憐な瑞華に心惹かれ、やがて二人は恋に落ちた。しかし瑞華に執着する許婚・梓宸が、彼女の異変を感じ取って……。

*第1章
 冬の上海(シャンハイ)の気温は低く、雪がちらつく日も多いため、厚手の外套(コート)と手袋が欠かせない。
 一九三四年の十二月中旬、日本人である板倉(いたくら)成彰(なりあき)は、自身の事務所が入っている建物から外に出て鈍色の空を見上げた。
(寒いな。ああ、雪がちらついてきた……)
 アヘン戦争後、南京(なんきん)条約の締結によって中国に五港を開港させた英国(イギリス)は、自由貿易の拠点とするべく上海の黄浦江(こうほこう)西岸地域を永久に租借する契約を交わした。いわゆる“租界(そかい)”の誕生だ。
 そんな英国のやり方を他国が黙って見ているはずがなく、亜米利加(アメリカ)や仏蘭西(フランス)も相次いで中国と条約を結び、それぞれ租界を設置した。
 それから約九十年が経つ現在、黄浦江に面した外灘(ワイタン)、通称“バンド”沿いには壮麗な西洋建築が立ち並んでいる。英国の植民地支配を象徴する香港(ほんこん)上海銀行を始め、仏蘭西や日本、台湾(たいわん)、中国の銀行はどれも石造りの建物で、外壁は美しい彫刻や円柱で飾られ、上部に時計台や丸いドームまで設置されている様はまるでここが欧州(ヨーロッパ)かと錯覚させるほどだ。
 子爵家の三男として生まれ、美術商を営む板倉が“東洋の巴里(パリ)”と称される上海に住むようになって、もう二年が経つ。複雑な街の構造には慣れたものの、どうしても馴染めないのが“臭い”だ。腐った魚と下水、ニンニクや汗、香水が入り混じったこの土地独特の臭気だけは、いつまで経っても慣れない。
 かつて英国租界の中心だった外灘西側の区画は、亜米利加租界と合併して“共同租界”と名前を変え、上海一にぎわう場所になっていた。外灘と競馬場を繋ぐ南京路は、今日も多くの人と黄包車(ワンポウツォ)と呼ばれる人力車、バスなどでごった返している。
 花崗岩(かこうがん)が敷き詰められた幅六メートルの大路は、あちこちの建物の軒先に掲げられた大きな垂れ幕が鮮やかで眩しかった。そんな中、まず目につくのは苦力(クーリー)と呼ばれる中国人労働者だ。他にも自動車を乗り回す英国人や、最先端のファッションで着飾った上流階級の婦人、白人の老夫婦に婀娜っぽいロシア人娼婦など、さまざまな人種や階層の人々が行き交う往来はひどく活気がある。
 板倉はポケットから懐中時計を取り出し、時刻を確認した。このあとは商談を控えているが、約束まで一時間余りある。
 それまで小吃(シャオチー)店で昼食を取ろう──そう考え、秘書と共に大路を歩いていると、突然右側から人混みを縫うように小走りでやって来た若い娘とぶつかった。
「おっと」
 彼女は板倉の胸辺りに突っ込んできていて、咄嗟にその肩を支えてやる。すると娘が顔を上げ、狼狽した様子で謝ってきた。
「……っ、も、申し訳ありません、旦那さま」
 上海訛りの英語で謝る彼女は、中国人らしい。

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