
イラストルシヴィオ
三年前、上司からセクハラを受け、気弱でおとなしい美也は深く傷つき逃げるように退職した。伯父の遠矢の協力により今はカフェの店長をしている。常連客に囲まれ充実した毎日を送る美也だが、唯一の不満はカフェの制服がメイド服であること。ある日、常連客の里谷からいきなり告白されビックリ。里谷は礼儀正しく言葉遣いも丁寧な気遣いのある男で、こんな素敵な男性がなぜ私なんかを? と戸惑う美也。それでも二人の時間を重ねていくうちに里谷の優しさに触れ、過去に負った心の傷も癒やされていく。だが幸せな日々は突如崩される。元上司が現れ、またしても美也の心を傷つける行為を。そんな美也に里谷は優しく抱きしめてくれ――
一
『ねえ。笑ってよ。いつもみたいに笑って、「啓司(けいじ)君、大好き!」って言ってよ』
はぁはぁと興奮して荒い息を吐く男が、そう言ってにたりと顔を歪めた。
男によって壁際に追い込まれていた美也(みや)は、あまりの気持ち悪さと恐怖に吐き気が込み上げてきた。
──そんなこと言ったことない。
『怖がらなくていいよ。君の正体はちゃんとわかっている。大丈夫。君の秘密はちゃんと守るよ。セラーズ・ヴァイオレット!』
アニメキャラの名を叫んだ男はますます興奮したように鼻息を荒くした。目が血走っていて、普段の大人しいキャラクターとは真逆の本性をあらわに、美也を追い詰める。
男がさらに一歩前に出て近づいてこようとする。美也はいやいやと首を横に振って、拒絶するが男には伝わらない。男の手が伸ばされて、腕を掴まれた。
湿った手のひらの感触が気持ち悪くてたまらない。そのまま強引に腕を引かれた。
男の汗と煙草の混じった臭いが鼻先を掠めた。抱きしめられて、嫌悪に全身に鳥肌が立つ。
──嫌だ! 誰か助けて!!
そう叫びたいのに、恐怖に舌が凍りついたように、動かなかった。
眼の前が真っ暗になったように感じた。絶望感が美也を襲う。
ジリジリジリ………!
けたたましい音を立てて携帯のアラームが鳴って、美也は過去の悪夢から目が覚めた。
見慣れた天井を見上げて、ため息を一つ。美也は枕元にあった携帯に手を伸ばして、アラームを止める。
──久しぶりに見た……。
ここ数カ月やっと見ることもなくなっていたはずの悪夢だった。
もう一度ため息をついた美也は、まだ眠気の残る体をのろのろと起こした。顔にかかった髪が鬱陶しく乱暴にかき上げる。
サイドボードにあった眼鏡を取ってかけると、悪夢を振り払うように、勢いをつけてベッドから立ち上がった。
気分は最悪だったが、悪夢を振り返りたくなくて、美也はパジャマのまま洗面所に向かう。鏡に仏頂面の女の顔が映った。
──今日はまた一段とひどい顔。
鏡に映った自分の顔を見て、美也は苦笑する。
胸の辺りまで伸ばした黒髪に、黒縁眼鏡。一五二センチの小柄さに、クリッとした二重の瞳のせいか、今年二十五歳になるというのに、いまだに学生に間違われるほどの童顔。
夢見が悪かったせいか、鏡に映る美也の顔色はすっきりせず、瞼もどことなく腫れぼったい。美也は眼鏡を取って、蛇口を捻る。冷たい水で顔を洗ったら、冴えない顔も少しはまともになることを願う。
息を止めて冷水に顔をつけると、体に残っていた眠気とだるさが吹き飛ぶ気がした。
顔を洗い終えたら、心も少しだけさっぱりした。
──大丈夫。あれはもう過去のこと。
そう自分に言い聞かせる。
美也は眼鏡をかけ直すと、廊下を挟んで向かいにある台所に入った。