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婚約破棄したら御曹司に蜜愛されました

  • 作家吉田行
  • イラスト無味子
  • 販売日2019/02/05
  • 販売価格700円

本当に彼と結婚していいのかな──学生時代から付き合っているが社会人になってから商社マンの彼と少しずつすれ違いを感じていた夏奈。あるパーティーの夜、その彼の裏切りを知りとうとう結婚出来ないと告げる。すると彼は激怒して婚約破棄の慰謝料500万円を払えと言いだす。支払えない金額に夏奈が困惑していると、彼の同僚で御曹司でもある圭太郎が現れ、代わりに支払うから今晩夏奈にデートに付き合って欲しいという。御曹司の戯れか──そう思ったけれど正式な交際を申し込まれる。優しいデートと温かい抱擁――住む世界の違いに悩みつつ、圭太郎の素直さに強く惹かれていく。しかし、御曹司との交際には色々な問題が立ちはだかり……!?

  一 婚約破棄は五百万?

 夕方一瞬雨が降ったがすぐに止んで、東京湾の花火大会は無事開催された。
 浴衣姿の見物客が歩道に増えてきた夕刻、青山《あおやま》のとあるビルにもぞくぞくと人が増えてきた。
 そこは日本でも五本の指に入る総合商社の本社ビルだった。歴史を感じさせる煉瓦作りの壁が大通りに起立している。そのビルでは毎年花火大会の夜にビルのワンフロアをまるまる使ってパーティーが行われるのが慣例だった。
 そこに呼ばれるのは商社の人間とその家族、取引先の人間が多かった。恋人を連れてくる場合、それはほぼ将来を約束したようなものだった。
 柏木《かしわぎ》夏奈《なな》は着飾った女性たちが笑いさざめきながら入っていくビルへ恐る恐る足を踏み入れた。自分だけ地味なワンピースなのが気後れする。
「こっちこっち! なんだ、浴衣じゃないんだ」
 セキュリティゲートの前で待っていた恋人の能方《のうがた》黎人《れいと》は夏奈の姿を見て少し顔を顰めた。
「今日、仕事帰りだから」
 確かに浴衣姿の女性が目立つ。だが書店勤務の夏奈は仕事場からそのまま来たのだ。そう言うと黎人は苦笑いをする。
「休めばよかったのに。野々村《ののむら》商事の花火大会なんだぜ」
 彼の言葉に引っかかるものを感じる。この会社に入って二年、黎人はちょくちょく自分の仕事を軽んじるような発言が増えてきた。
「土曜日休めないの? どうせ給料安いんだから休んじゃえば」
「まだ職場で責任ないんでしょ? そんなに頑張らなくていいよ」
 そんな風に言われるたびに嫌な気分になる。
「俺の仕事は日本を動かしているんだ」
 確かに野々村商事は日本でも五本の指に入る大企業だが、だからといって自分の仕事を侮られるのは嫌だった。
(こんな人じゃなかったのに)
 夏奈と黎人は東京の大学で出会った。二人とも地方出身者、同じサークルだったこともあって自然と距離が縮まり、恋人同士になった。
 卒業しても付き合いは続き、社会人二年目の今、お互いの両親とも会ったことがある。少し早いが二人とも結婚を意識していた。
 だから今夜、会社の主催する花火大会に呼ばれたのだ。
 本当なら結婚前の一番楽しい時期――だが夏奈の気持ちは暗かった。
(本当に黎人と結婚してもいいのかな?)
 大学時代の黎人は自分と似た雰囲気の地味な男性だった。そんなところが好ましくて好きになったのだ。
 だが、商社に就職した彼はだんだん生活が派手になっていく。寮に入って給料はほとんど使えるせいか、服が高価になり、デートで使う店が変わっていった。
 高級な焼き肉や寿司に戸惑う夏奈を黎人は侮っているようだった。
「金なら心配するなよ。デートで女に財布を開かせるのは男じゃない」
 そんな言い方も彼らしくなくて違和感があった。
(会社のせいなのかな)
 黎人は商社の先輩に連れられてあちこち遊びまわっているらしい。銀座《ぎんざ》のコリドー街でナンパもしているようだ。
 さすがに夏奈がナンパを咎めると彼は言い訳した。
「先輩に無理矢理連れていかれたんだよ。でもびっくりした、うちの社員章見ただけで女がついてくるんだよ。もてる彼氏で嬉しいだろ?」
 夏奈はそんなもの嬉しくなかった。もてなくてもいい、自分だけを見てほしかった。
 何度も別れを意識した。だが踏み出す勇気が出ない。夏奈と黎人はお互いに初めての恋人同士だった。
 夏奈は黎人しか知らなかった。彼を傲慢に感じても、他の男性と比較できなかった。
(男の人ってこんなものなのかな)
 友人に相談しても答えはばらばらだった。『酷い男』と言う者も言えば『男なんてそんなもの』という者もいる。
 夏奈が迷っているのに、黎人は夏奈との結婚をどんどん進めていく。夏休みに突然彼の実家へ連れていかれ、両親から挨拶された。夏奈の親が東京に来た時に黎人が顔を出したこともある。
 大学時代から四年間続いた恋人だった。少し早いがこのまま結婚してもおかしくはない。友人に意見を求めても『野々村商事の夫なんか最高じゃない、なにが不満なの?』としか言ってくれなかった。
 だが、周りが盛り上がるのと反比例して夏奈はためらいが大きくなっていく。
(本当に黎人と結婚しても大丈夫?)
 迷いがあるのに結局会社の花火大会にまで来てしまった。強く言われると逆らえない、こんな気弱な自分が嫌だった。
「でも可愛いよ、夏奈。このなかで負けてないよ」
 そう言って黎人は肩を抱く。その手が汗ばんでいるのを夏奈は感じ取っていた。
(彼と本当に夫婦になるのかな)
 夏奈と黎人は四年間交際していても、未だ体の関係にはなっていない。
 大学時代、二人で温泉旅行にいってそれが二人の初夜にはるはずだった。だが経験のない黎人がどうしても出来なかったのだ。
 夏奈はそんなことを気にしてなかった。不慣れなのはお互い様だし、付き合っているうちにまたそんな機会が訪れるだろうと思っていた。
 だが最初の失敗でプライドが傷ついたのか、黎人はそれ以降求めて来ず、その状態でプロポーズされた。お互い社会人になって二年目の時だった。
 さすがに驚いた夏奈は彼に問いただした。
「プロポーズは嬉しいけど……私たち、その、まだ……」
 言いよどむ夏奈に黎人は自信満々でこう答えた。
「俺たちもう長い付き合いじゃないか。そんなものに頼らなくても大丈夫だ。結婚して本当の夫婦になろう」
 そう言われて嬉しくなかったわけではない。だがその頃から感じていた違和感はどんどん大きくなっていた。
「午後半休とって浴衣着てくれば良かったのに。夏奈、自分で着付け出来るだろう?」
「だから、土曜日は特に忙しくて」
「お前がいなくても大丈夫なようにしなくちゃ。俺もいつ転勤になるか分からないからさ」
 自分の仕事は結婚までの腰かけ──そんな風に思われるのも嫌だった。
(私は私なりに真剣にやっているのに)
 だが反論は出来なかった。そんなことをしたら自分の時給や仕事の規模を持ち出してこちらが根負けするまで反論するだろう。
 そして、自分が不機嫌になって黙り込むと急に機嫌が良くなって優しくなるのだ。
 だから夏奈は彼に逆らわなかった。自分が大人しく従っている限り、黎人は優しくスマートな恋人だった。
「夏奈の黒髪は綺麗だな。茶色に染めた髪よりこのほうがいいよ」
 周りにいる女性はカラーリングして髪を巻いた華やかな人が多かった。そんな中でシンプルなワンピースに黒髪の夏奈は地味に見える。仕事中は一つ縛りにしているので、その痕がついたままだ。
 黎人はそんな自分を気に入っているらしい。
「夏奈は社会人になっても変わらないなあ。そんなところが好きなんだ」
 その言葉に引っかかるものを感じながら、夏奈はビルの最上階に入っていった。

「わあ……」
 思わず声が漏れた。花火大会前だがパーティー会場はすでに沢山の人がいて盛り上がっている。
 会場の真ん中にはたくさんのオードブルが並び、壁際にはお祭り会場のように焼きそばやたこ焼きの屋台が出ていた。社員の子息らしい子供たちが水風船釣りに挑戦している。そんな会場の窓の外は美しい都心の夜景だった。
「凄いね」
 思わずそう漏らすと黎人は自慢げに言った。
「良かったな、俺が彼氏で」
 二人は飲み物を持つと窓際に行った。眼下の道には花火見物の人間がぞろぞろと歩いていた。
(大学時代、二人で隅田川《すみだがわ》の花火に行ったな。凄い人ごみでくたくたになったけど楽しかった)
 そんな思い出を語ろうとした時、黎人が口を開いた。
「もう俺たちは人ごみの中で見なくていいんだ。見ろよ、あんな暑い中よく見ていられるな」
 その口調にかつての自分たちを馬鹿にされたようで、夏奈は飲み物を取りに行くふりをして彼から離れた。
(あれ?)
 その時、パーティー会場に入ってきた男性がいた。
 皆の視線が一斉に彼に集まるのが分かった。
 まるで俳優のように美しい男性だった。年齢は自分とそう変わらない気がする。夏物の薄い背広が吸い付くように似合っている。
 女性の目が彼に集まるが、すぐに近寄っていったのは年上の男性だった。今まで部下に囲まれていたような人が自分から彼に挨拶にいっていた。
(誰なんだろう)
 彼を見つめる夏奈の背後から、黎人が声をかけた。
「あいつ、誰だと思う?」
「有名人なの?」
 黎人は自慢げに言った。
「あいつは俺の同期なんだけど、小川《おがわ》家の御曹司なんだぜ」
「小川家ってなに?」
 その平凡な名前は聞き覚えがありすぎて逆にイメージが湧かない。
 黎人はますます得意げになる。
「小川家は昔の財閥で、戦後解体されたけど今でもいくつかの会社を経営しているんだ。特に有名なのはビル経営かな」
 黎人が高層ビルの名前をあげ、その中には夏奈の知っているものもあった。
「凄いんだね、そんなお金持ちの子供がいるんだ」
 思わずそう言うと黎人は皮肉げに言う。
「ああいう御曹司やお嬢様はこの会社に沢山いるよ。そういうのは仕事は出来ないんだけど取引で有利になるから雇っているんだ。本当に働いているのは俺たちみたいな庶民だよ」
 そう語る黎人の横顔はむしろ自慢げだ。そんな人間と一緒に仕事している自分のことが誇らしいのだろう。
(私たちは庶民だよね)
 煌びやかなパーティー会場に集まった人々は男も女も着飾っている。特に女性は贅を凝らしていた。ある程度年を重ねた人は浴衣ではなく夏物の着物を纏っている者もいる。
 そんな雰囲気に夏奈は気圧され気味だった。
(もし黎人と結婚したら、こんな場所で皆とお話しなければならないのかな)
 どちらかというと人見知りのほうだ。大学時代は黎人もそうだったのに、今は会社のパーティーで他の人と談笑を始めた。自分たちより少し年上の男性陣だ。
「よう、黎人、今日は彼女連れか?」
「可愛い子じゃん、いいなあ若い子」
 商社の先輩たちは黎人と親しいのか、夏奈のことも無遠慮に眺めまわす。その視線に耐え切れず席を外した。
「ちょっと、お料理取ってくるね」
 会場の中央にある大きなテーブルに逃げた。ここには身の置き所がない気がする。それは単に慣れていないだけなのだろうか。
(私、やっていけるかな)
 憂鬱な気持ちで白い皿を持ち、オードブルの大皿に箸を伸ばした。もう料理はかなり少なくなっており、スモークサーモンの乗ったカナッペは残り一つだった。
「あっ」
 箸がそれを取ろうとしたその時、反対側から銀のトングがそれに近づいてきたのに気付いた。夏奈がぱっと顔を上げるとそこには──。
(あっ)
 声にならなかった。さっき入ってきた小川家の御曹司――名前は知らない──が目の前に立っていた。彼もサーモンのカナッペを取ろうとしている。
「ど、どうぞ」
 夏奈はさっと箸を引っ込めた。だが御曹司は優しく笑ってトングを引っ込める。
「どうぞ、取ってください」
 譲ってくれた──それがかえって恥ずかしくて夏奈は首を横に振る。
「いいえ、私、ここの社員じゃないので、家族でもないんです、だから、どうぞ!」
 完全に頭に血が上っていて、おかしいことを言っていることに気が付いたのは言葉が口から出た後だった。
(私、なにを言っているんだろう)
 そもそも御曹司なんだからカナッペの一つ二つ譲られても嬉しいわけない──夏奈は恥ずかしくて仕方なかった。
「じゃあ、貰うね。ありがとう」
 慌てふためく夏奈とは対照的に御曹司は落ち着いていた。銀のトングでカナッペを摘まみ上げると──それをそのまま夏奈の皿に載せる。
「あ……」
 突然のことにお礼も言えない夏奈に、彼はもう一度微笑んだ。
「楽しんでいってね、じゃあ」
 なにも取らずテーブルから離れた御曹司はあっという間に人に囲まれる。その様子を夏奈はぼんやり見つめていた。
(凄い)
 彼のバックグラウンドを知らなくても自分は彼に魅了されただろう。
 間近で見てもほれぼれするほどの美男子だった。
 少し茶色がかった髪は優しくウエーブして額にかかっている。体はスリムだったがしっかりと芯が通った頑健さを感じさせた。
 その頬は健康的な明るさで、自分より艶やかに見えた。
(あんな人がいるんだ)
 黎人の自慢に鼻白んだのに、今彼と一言二言話しただけでなんだかふわふわしている。
 ウーロン茶を貰い、カナッペを一つだけ乗せた皿を持って部屋の隅にいった。
「いよいよ花火大会が始まります。皆さん窓の外にご注目ください」
 大きな窓ガラスの外に花火の輪が開いた。談笑していた人々の顔が一斉にそちらを向いた。
 だが夏奈はその中に入る気がしなかった。
(私のいるところじゃないんじゃないかな)
 女性はみな華やかで、男性も年齢関係なく凛々しい。さっきの御曹司のように家柄のいい人も沢山いるだろう。
 そんな人の中に入る自信がなかった。
(黎人と結婚していいのかな)
 黎人はこの会社に入ってどんどん派手になっていった。そんな彼がどうして自分を妻にしたいのだろう。ぱっと見ても自分より華やかで美しい女性は沢山いるのに。
(今どこにいるんだろう)
 人ごみの中で黎人を探す。
 だが花火見物の中にはいなかった。夏奈は部屋の隅に目を凝らす。
「あ、いた」
 広い会場を出てエレベーターホールの隅、大柄な男たちが五、六人集まっている中に黎人がいた。
「れい……」
 声をかけようとして足が止まる。彼らは無遠慮に大声で笑い、なにかを話していた。その雰囲気が近づきがたくて夏奈はすぐに近寄れなかった。
 高校時代、男子が固まって騒いでいる時と似た感じだった。集団になった彼らは普段よりはしゃいで手が付けられなかった。
 彼らからそんな空気を感じた。
「お前の彼女、もったいぶった割に大したことなかったな」
 そう言われたのは黎人だった。ということは──。
(私のこと?)
 自分のことを噂されている。全身から汗がどっと噴き出た。
 彼らに見つからないように植木の陰に隠れる。幸い彼らは話に夢中で周囲に気を配ってなかった。
「酷いなあ、そんなにブスじゃないでしょう?」
「でも二十代で結婚したいほどじゃねえなあ。もっと探してもいいんじゃねえの? 寮祭に来た女紹介してやろうか」
 どうやら彼らは黎人の先輩らしい。会社の男子寮で一緒に暮らしているようだ。寮祭と聞いて黎人の顔が歪んだ。
「嫌ですよ、先輩のお古なんて」
 その言葉に夏奈は嫌悪感を感じた。寮祭とは男子寮でのお祭りで、その日だけは女性を入れていい日らしい。
 そこに来た女性を『お古』だなんて……その言葉を聞いた先輩たちもどっと笑っている。
 その笑いに押されたのか、黎人はとうとうとんでもないことを口にした。
「どうして俺が夏奈と婚約したのか分かりますか? 彼女、処女なんですよ」
 その言葉に周りの先輩たちが驚愕の声を出した。夏奈は恥ずかしさと怒りで顔が熱くなる。
「彼女は大学時代からの付き合いで、向こうは俺が初めての彼氏だったんです。だから大事にしたくって、まだ抱いてないんですよ。ここまできたら結婚式まで取っておくつもりです」
 怒りで足ががくがくする。初めての恋人だったのは黎人も同じだったのに、処女なのもただ最初の時に失敗しただけなのに……こんな大事なことを人に言うなんて!
「確かに夏奈は地味だし、ごく普通の女だけどなんといっても処女ですからね。俺が責任取って嫁にしなきゃ。この年まで取っておいたんだから」
 その言葉に周囲の先輩たちも同調する。
「そうだよなあ、もう処女だと引かれる年だよな」
「ギリ大学生ならともかく、社会人で初めてだと引くわ」
「いいよなー本当の初夜だな」
 そして、決定的な言葉が先輩から飛び出した。
「お前、俺のセフレと遊んだくせに嫁は処女とかずるいよな」
 目の前が真っ暗になった。黎人が他の女性と? 自分がいるのに?
「それ、夏奈には言わないでくださいよ。今どき珍しいくらい真面目な女なんだから。セフレなんて言葉、知らないかも……」
「セフレくらい知ってます」
 夏奈は思わず植木の陰から飛び出した。その姿を見て黎人の目が丸くなる。
「な、夏奈!? どうして?」
「馬鹿にしないで! あなただって初めてだったくせに!」
 そう怒鳴って立ち去ろうとする夏奈の手を黎人は強引に掴んで他の部屋へ連れて行った。
「どこへ行くのよ!」
 夏奈が連れてこられたのは人気のない会議室だった。賑やかなパーティー会場とは違って殺風景なパイプ机だけが並んでいる。
「男同士の話を盗み聞きするなよ」
 そういう黎人だったが、その表情は少し気弱だった。彼も今の会話を夏奈に知られたのはまずいと思っているらしい。
「さっきの話、本当なの? 先輩のセフレと、って……」
 夏奈は出来るだけ怒りを抑えて彼に尋ねた。ここで感情を爆発させたら彼は白状しないだろう、そう思ったからだ。
 その予想通り、黎人はいたずらが見つかったような顔になってへらへら笑いだした。
「ほんとごめん! 俺、夏奈との初夜で失敗したのがトラウマで……結婚前に一度、練習したかったんだ。もちろんその時はちゃんとコンドーム使ったし、一度きりでその後連絡はとってないよ」
 それが釈明になると思っている彼の感覚が怖かった。彼と関係を持った相手がどんなつもりか分からないが、もし彼に好意を持っていたとしたらなんと残酷なことだろう。
 夏奈は四年間つきあっていた男性の目をしっかり見つめて言った。
「分かった、黎人は私と婚約しているのに他の人と関係したのね。もうあなたとは結婚できない」
 それを聞いた黎人の目がみるみる丸くなる。
「ちょっと待って! 怒るのは分かるけど、たった一度の過ちで俺を捨てるのか?」
「一度じゃない! さっきの言葉だってあるわ」
 自分はたいして可愛くないし、家柄も良くないけど処女だから結婚する──皆の前でそうはっきり言われたのだ。
「私が処女だから結婚するの? もし負担に思っているんだったら気にしないで。そんなつもりで経験がないわけじゃないから」
 黎人は慌てふためいて夏奈の肩を掴んだ。
「だから、あれだって先輩たちの手前言っただけだって。本気で可愛くないなんて思っているはずないだろう」
 夏奈はその手がやけにべたついているように感じた。大学生の時は手を繋ぐだけで嬉しかったのに。
「もうなにも聞きたくない。とにかく結婚は一度取りやめにしたいの。こんな気持ちであなたの妻になんかなれない」
 浮気や今日の言葉だけじゃない、ずっと我慢していた彼の嫌なところが急に駄目になってきた。自分の会社が一番偉いと思い、夏奈の仕事を馬鹿にしているところ、家事は必要最低限しかしなくて結婚したら全部自分にやらせようとしているところ、女は結婚して子供を産んだら仕事を止めると思っているところ──彼との将来に不安しかなかった。
「まだ式場も予約してないし、いいでしょ。普通の恋人――ううん、友人に戻りたい」
 本当はしばらく顔も見たくなかったが、長年の付き合いに免じて少し言葉を緩くした。だが黎人は承知しなかった。
「夏奈――本気か? 本気で俺と別れるつもりなのか」
 はっきり首を縦に振った。ここであいまいにしたら一生後悔するだろう。
 すると黎人の目が徐々に吊り上がってくる。今まで見たことのない表情だった。
「ふざけるな、もう俺の両親に挨拶してるし、今夜ここに呼んだんだから会社の人間はお前が俺の婚約者だって思っているんだ。これでお前と別れたら俺のメンツはどうなると思う?」
 その言葉に夏奈は改めて悲しみを覚えた。四年間付き合った恋人と別れるのに、気にするのは自分のプライドだけなのか。
「悪いとは思っているわ。でも正式に結納を交わしたわけでもないし、式場だって予約してないじゃない。今日だって私はそんなつもりで来てないもの」
 今夜はただ『会社から花火が見れるから来ない?』と言われただけだった。まさか黎人が自分をお披露目するつもりで呼んだなんて思わなかった。
 だが黎人の怒りは収まらない。
「お前、常識で考えろよ。会社に恋人を呼ぶってことは、もう公式の関係になったってことなんだよ。俺たちは婚約しているんだ」
「じゃあ、どうしろっていうのよ」
 彼の剣幕につい弱気になってしまう。黎人は顔を真っ赤にして言った。
「もし、本気で俺と別れたいなら慰謝料を払ってもらう。お前のことは親も大学の友人も、今日会社の同僚にも見られたんだから全員に説明しなけりゃならない。それに俺の精神的ダメージだってある」
「慰謝料? あきれた、そもそもあなたが浮気したんじゃない」
 慰謝料請求したいのはこちらのほうだ、そう夏奈が反論すると黎人は開き直る。
「俺が浮気したって証拠でもあるのか?」
 言葉に詰まった。確かに証拠はない。自分がさっき聞いた会話だけだが、録画していたわけでもない。
「それは……今あなたが言ったじゃない、練習したって!」
「俺はそんなこと言ってない、先輩たちにも聞いてみろよ」
(しまった)
 証拠を押さえてから婚約破棄すべきだった。あの先輩たちに証言を頼んでも、きっと正直に言わないだろう。
 無言になった夏奈を見て黎人は隣に近づき肩を抱いた。
「なあ、冷静になれよ。頭に来たのは分かるけど……そんなに怒るってことは俺のことがまだ好きなんだろう」
(好き?)
 自分は本当に黎人が好きなんだろうか。
 初めて出来た彼氏だった。初めてのテーマパークデートは楽しかった。初めてのキスはドキドキした。
 でも、今、本当に彼のことが好きなんだろうか。
 長い付き合いで、彼が隣にいるのが当たり前になっていただけじゃないだろうか。
「……分からない」
 夏奈の言葉に黎人の手が強く握りしめられる。
「なんだよ、それ」
「あなたが好きなのか分からなくなった。ごめん、やっぱりこのまま結婚は出来ない。友達に戻りたい」
 次の瞬間、強い力で突き飛ばされた。はっと目を開けると怒り狂った黎人の顔が目の前にある。
「分かった、お前が本気でそのつもりなら俺も本気出す。弁護士立てて慰謝料請求するからな。五百万、耳を揃えて払えよ」
(五百万!?)
 その金額に夏奈は驚愕した。
「そんな、私がそんなお金を持ってないことあなただって知っているでしょう」
 夏奈は奨学金を使って大学進学した。それを今返している最中なのだ。地方に住む親はもう定年だった。
 そう訴えても黎人は折れなかった。
「そんなこと俺には関係ない。お前のせいで俺は損害を被るんだからその分を保証するのは当然だろう」
 反論できなかった。確かに自分はあの時、彼のプロポーズを受けた。心に迷いがあったのに──。
『結婚してくれ』
 去年のクリスマス、表参道《おもてさんどう》のイルミネーションを見ながら彼がぽつりとつぶやいた。
 その横顔が、昔の彼みたいで胸が熱くなった。
『結婚したら、優しい彼に戻ってくれるかも』
 そんな甘い気持ちでYESと言ってしまった。もっと深く考えて答えなければならなかったのに。
「どうする? 夏奈。また借金を背負うのか? 親になんて言うつもりだ」
 夏奈の父母は有名商社に勤める黎人との結婚を喜んでくれている。結婚が取りやめになっただけではなく、借金が増えることになったらきっと悲しむだろう。
(でも)
 夏奈は、それでも答えを変えることが出来なかった。
(お金で人生を売ることは出来ない)
 たとえ借金を背負っても、嫌いな人と結婚するよりましだった。
(でも……)
 これ以上借金を背負って、今後新しい恋人が出来るだろうか。
 ただでさえ取り立てて取り柄があるわけでもない、平凡な自分が──。
「よく考えろよ。俺と結婚すればなんの心配もいらないんだ。専業主婦にだってなれるんだぞ」
 仕事を辞めたいわけではない、だが生活の心配がなくなる暮らしと借金を背負うこと、その二つは雲泥の差があった。
(でも)
 やっぱり無理だった。
 どんなにつらくても、黎人との結婚よりはましだろう。
 今後、二度と彼氏が出来なくても結婚出来なくても構わない。
 今NOを言わなければ。
『あなたとは結婚できません』
 決定的な言葉を口にしようとしたその時。
 半分薄暗かった会議室がぱっと明るくなった。

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